Tamuratic. から TamuraTech へ

 
 
Tamuratic.Japan から
 
 TamuraTech Japan 
 
 
エジプトジャーニー🇪🇬直前に、自由が丘に移転された田村老師。
11月最終日から無事に活動を再開されたそうです⭐️
 
地水火風空ブログ〈活動再開のお知らせ〉
 
 
これまで粛々と20年にわたり事上磨錬されてきた活動の中で、そもそも[ 整体 ]というジャンルに収まりきれず、なかなかに人に説明がしにくい、というコチラの都合で伝えにくさが伴っていたものが、ここにきてようやくシンプルに、
『 心体環境コンサルティング 』というワードに集約されたようです。
 
そして、Tamuratic. から TamuraTech へと。
 
 
[ Tech ]は[ Technology テクノロジー ]
まさにタムラ流技術の髄を極めた TamuraTech。
 
これまで数々の眉唾現象を具現化してきた^ ^[ 遠隔 ]も正規メニューに姿を現し、
 
[ 心体環境コンサルティング ]
◎ コア・セッション』(直接・遠隔)
◎ TamuraTechセッション』(直接・遠隔)
 
によって、
 
これからのTamuraTech Japan 
益々面白くなりそうです!!!
 

 

 
 
ダ・ビンチときました^ ^
 
 

[ 心体環境コンサルティング ]詳細

https://www.tamulab.info/tamuratech-japan

参考記事
https://blog.goo.ne.jp/tamuradesu/e/536b9a4904ad9b72800c0657ac9bfb9a

【記事より抜粋】

「時間」を、価値の一つとして考えている方は多い。
それはそれで価値の持ち方であり、人によってちがうのは当然といえば当然。
ただ、『Tamuratic.』のセッションに関しては、「時間」の長短というのはあまり意味を持たないので、その点は明記しておく。
短ければ数分、長ければ一時間を超える場合もある。
それは、「時間」が基準でなく相手の方の「度」が基準になるからだ。

整体には、「機・度・間」という概念がある。
「時間」は、その全てに関連があるが、特にといえば「度=度合」というカテゴリーに分類されるだろう。

少し引用すると、

「操法の技術もとより処を得て押さえ放す事なり。その処に指がピッタリ当たっているか、その指が型によって用いられあるや見定めること必要なるもただ格好のみ見て度のこと見究むるに非ざれば、実際に操法を用うる人見出だせざるなり。
度とは強弱也長短也遅速也多少也。時間長く操法しておれば丁寧なつもりの人あるも時をただ多く費やしているは度を知らぬ也。度のこと知らず自分の満足のために時間多く費やしていても之丁寧なるに非ず。当てずっぽーなる也。度を知りて長き時間を費やさねば不安なるは技鈍き也。一秒間の長さが瞬く間に過ぎ去る人也。一秒を活かして捉え得ねば十分間も一時間も活かし得ぬ也。時を活かし得ぬ人二時間三時間操法を繰り返してもお互いに疲れるだけのこと也。
度を過すことを怖れて弱く長く操法している人あるも同じこと也。度の適を得ねば効無き也。
操法ということ長ければ親切と思い弱ければ丁寧と思い短ければ鮮やか思い強ければ自信あると思う人あるも度の適を得ざれば長くも短くも強くも弱くもまた中位なるも不可也…続く」
(「整体操法 中伝」より引用)

言葉使いも古いので少し読みにくいとは思うが、なんとなく言いたいことはつかめるだろうか?
ちなみに、文中「処」というのは、たとえば「急処」というような使い方をする。
わかりやすくいえば整体版の「ツボ」で、「ツボ」と同じ場所の場合もあるがそうでない処もある。

また、私事で恐縮だが、最近、病院で身内が亡くなった。
その時に、同じ野口先生のこの文章を思い出した。

「治療術というと何かすることだと思っている人が多いが、治療術ということは何かすることだけではなくて、何もしないことも治療術なのである。そしてその何もしないことの方が大切な治療術なのである。何もしないということが最高の治療術であることを知っている人もいるもいるが、何もしないということを治療術とする技術があることを判っている人はまことに少ない。何もしないということと、何もしないということを治療術とすることとは違うのである。この違いが判らねば何もしないということを治療術として活かすことはできない」(「治療の書」野口晴哉)

「手を尽くす」ということが、何か履き違えられている。
そう思わざるを得なかった。
とはいえ、

「今は世の中の全体が何かすることの方に偏っている。それは人間の生きているはたらきを故意に無視することから治療ということが考えられている為であろう」(「治療の書」)

この傾向は、この書が書かれた昭和26年より、何も変わらない。
というより、もはや意識できないほどに偏った、ともいえるかもしれない。。。

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